私は体質的にお酒が飲めないのですが、それでも若い頃は宴会などでは場を盛り上げるために飲んでました。
ビールだったら中ジョッキ1杯で顔真っ赤、2杯で気分がハイになり、3杯で気分が悪くなり、4杯も飲めばトイレに篭って出てこなくなります。
だいたいビールが美味しいと感じたことが有りません。
酎ハイやカクテルやワインは美味しいと感じます。
日本酒も冷酒なら美味しいと感じます。
しかし、一般的に宴会などではビールが出されることが多いのですが、私の場合、飲んで何か得することがあるでしょうか?
不味い思いをして嫌いなビールを飲むことに意味がないし、頭痛とか吐き気とかそういう気分の悪くなることもありません。
どうせ飲まないなら徹底して飲まないほうがいいだろうということで、禁酒しました。
気がつけば1年、アルコールを飲んでません。
体質的に飲めない人間なので、飲みたいと思うこともありません。
年末になるとお酒の場が多くなります。
私にとっては美味しい食事を楽しめればそれでOK。
帰りの足を心配することなく、たらふく食べられればそれで幸せです。
酒も飲まない、タバコも吸わないギャンブルもしない。
ついでにゲームもしない。
それでもけっこう充実した生活をしていると思う今日この頃なのでした。
よく学級文庫などで伝記やSFを借りて読んだものです。
あと奈良の従兄弟の家にいくと、童話全集があって夏休みなんかにゴッソリ借りて読んだものです。
それは私にとってプラモデルを作ったりマンガを書いたりするのと同じ娯楽でした。
小学校卒業後はミステリーが好きになり、たまにはコバルト文庫なんかの恋愛小説も読みました。
それはギターを弾いたり音楽を聴いたりするのと同じ趣味の暇つぶしでした。
私は小説を読むのは「読書」のうちだと思ってました。
それがどうも違うらしいのです。
「小説はマンガと同じで本ではない。つまりそれを読むのは読書ではない」ということらしい。
全くどうでもいいことなのですが、こういうことをいう人にとって「読書」というのは実に敷居が高く、高度な教養育成の一つだと思ってるのかもしれません。
ミステリー小説は2時間サスペンスとなんら変わらず、歴史小説はNHK大河ドラマと同レベル、そういう程度の低い読み物なんて「本」ではないのでしょうね。
ストーリー的に言えばミステリー小説も2時間サスペンスも大差ないでしょう。
単に面白いストーリーを楽しみたいだけなら、2時間で完結するドラマのほうが合理的だし、ある意味優れているともいえます。
だからといって、ミステリー小説は無くなりません。
ミステリーに限らず小説には、小説という形態があり、ドラマや映画では得られないものがあるのも事実だからです。
昨日で東野圭吾氏の「秘密」を読み終わり、今日から同じ著者の「さまよう刃」を読み始めました。
200ページほど読みましたが、ページを開くごとにその内容(これがけっこう重いテーマなのですが)に引き込まれていきます。
その行為が「読書」なのか違うのかなんて、やはりどうでもいいことなのでした。
(どうでもいいわりにダラダラとこんなことを書いてたりするのですが)
とりあえずこのブログのカテゴリーを「読書」から「小説」に変更しときました。
10月21日が何の日か知ってるか?
ん?知らねえ?
全世界のROCKファンが首をろくろ首にして待っていたAC/DCのニュー・アルバムの発売日じゃねーか!
そんなことも知らずによくROCKが聴けるな、オマエ。
今すぐAC/DCの全アルバムを買って朝まで聴いてろ!
何?聴いたけど何も変化がないだと?
んなもん、当たり前じゃねーか!
AC/DCだぞ、AC/DC、奴らは1973年からロックンロールし続けてるんだ。
不動のスタイルで同じロックンロールをやり続ける、それがどんなに大変なことかわかってていってんのか?
オマエは明日から半ズボンにランドセル背負って会社へ行け、いいな!
は?バラードやキャッチーな曲がない?
オマエ、そういうのが聴きたけりゃAC/DC聴かんだろ、常識的に考えて…
奴らはロックンロールしか出来ない大バカ者なんだよ、本当の大バカ者なんだよ。
しかし、バカを大真面目にやると、それはカッコいいんだよ、わかるか?
オマエのような半端者は、真冬でも上半身裸で、時には人前でケツ見せろ!
そりゃ人から「何やってんだ、あいつ」なんて思われるかもしれない。
でもいいじゃないか!
バカはバカ、それでもオマエを認めてくれる奴はどこかにいるはずさ。
バカでもいい、そこにロックンロールがあるなら…そんな彼女に出会ったら一言いえばいい。
「AC/DC聴こうぜ!」
先月からもう一度1巻から読み直しました。
やはり司馬遼太郎作品、読みやすく、わかりやすい一級の歴史エンターテイメント作品です。
司馬氏の長編小説の中でも1,2を争う人気作品で、私自身も「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」と並んで面白かったと思います。
司馬氏が描く明治期の日本ですが、さまざまな困難を乗り越えて不可能を可能にしていく様が、秋山兄弟と正岡子規を中心に生き生きと描かれており、まるで壮大な映画を見るようです。
また文章の所々に司馬氏一流のユーモアがあり、一見固いテーマでありながらも、ちょっとニンマリする場面が多々あります。
基本的に「偉大な明治、愚劣な昭和」なスタンスの司馬氏ですが、ここでも明治期と昭和初期の政治体制を比較し、痛烈に後者を批判しています。
憲法第一の立憲国家であり、昭和初期のような軍の暴走がなかった明治政府に対し、絶対君主制だった当時のロシアについては、日露戦争の敗戦とロシア革命をもってして「崩れるべくして崩れた体制」としています。
70年代から80年代あたりだと、多くの若者が読むべき本の上位にランクされる作品だった「坂の上の雲」ですが、私はこれを読み終わった今、あまりそのようには感じません。
私は司馬氏の作品は、主な代表作は読んでますし、好きな作家の一人なのですが、今の時代にそぐわない部分も多々あると思うのでした。
たしかに古い体制、硬い頭、精神力に頼り具体的な改善をしない、という体質が下落を招き、ときには国をも滅ぼさせるというのは説得力はありますが、今更な感じは否めません。
今この作品を読む意味は、単に歴史スペクタクルな小説が読みたい、明治期を舞台にした小説が読みたい、という人向けだと思います。
そして、それらの人の望みを高いレベルで満足させることが出来ると思います。
中国女の営 業中さん22歳(仮名)はハルサメが大好き。
毎朝ハルサメをスープで煮込んだ料理を食べてます。
なぜハルサメを食べるのか?
「そこにハルサメがあるから」
と言ったとか言わないとか…。
さすがに彼女、毎日ハルサメを食べてるとちょっと飽きてきたらしい。
だったらご飯とか別のもの食べればいいのでは?
ほら、中国では中華粥とか有名ですよね。
「ハルサメをゴマ油で炒めて食べることにしました」
結局ハルサメですか、そうですか。
(ちなみに春雨大好き人間は彼女だけで、他の人は普通にいろいろなものを食べてるそうです)
春雨は中国語では粉絲(fensi)といいます。
カタカナ表記にすれば「フェンスー」といったところでしょうか。
これが最近の若者の間では、ファンの意味で使われるそうです。
例えば、「私はビートルズのファンだ」、という場合、「私はビートルズの粉絲だ」、ということです。
これは英語(fan)と粉絲(fensi)の語感が似てるかららしいです。
ということは、営 業中さんは粉絲(ハルサメ)の粉絲(ファン)ということですね(笑)
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