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今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が終了しました。
それにちなんで、幕末ファンの間でよく話題になる「もしも坂本龍馬が暗殺されなかったら」について自分なりの意見を書いてみたいと思います。
まず、坂本龍馬とはどういう人間で、何をしたかったのか?
これについてはっきりさせておかないと考察が出来ません。
ここで私の考えをはっきりさせておきます。
まずは坂本龍馬という個人について
・自分に都合の悪い人間をむやみに暗殺したりはしない
・欧米の進んだ文化に憧れている
・今までの常識にとらわれない柔軟な頭
・世界一周旅行、とくにアメリカやヨーロッパの国々を見学したい
・世界規模の仕事がしたい
つづいて彼が目指していたもの
・日本を欧米列強の圧力に屈指ない独立国家
・徳川幕府が支配する世の中を廃し、民主主義的な社会を目指す
・基本的に国民は平等で、志があれば誰でも政治に参加出来る可能性がある制度
・日本国民の幸せ
それでは、龍馬が暗殺されず、戦死することもなく、明治30年くらいまで生きていたとしましょう。
慶応3年10月14日、京都二条城において大政奉還が実施され、徳川幕府が終焉します。
龍馬は新しい政府のための人材を確保するため日本中を飛び回りますが、薩摩や長州は武力倒幕を進めていきます。
そして慶応4年1月3日、京都にて薩摩、長州と旧幕府が軍事衝突(鳥羽伏見の戦い)、戊辰戦争の幕開けとなります。
武力倒幕に反対だった龍馬ですが、時代の流れには逆らえないでしょう。
このとき龍馬のしそうな行動を3つ
1.板垣退助率いる土佐軍に合流し、戦争に加わる
2.海援隊を率いて薩長海軍に合流、あるいは単独で幕府海軍を攻撃
3.戦争をやめるように西郷を説得
たぶん2番、海援隊で戦争に参加したかな、と思います。
ただ、歴史の流れを変えるほどの成果はなかったでしょう。
天皇を見方につけた薩長は官軍となり鳥羽伏見の戦いに勝利、江戸総攻撃のため江戸を目指します。
ここで西郷と勝による会談が行われ江戸無血開城がなされますが、おそらくこれに龍馬は一枚噛んだと思われます。
江戸が戦火に包まれると欧米諸国に付け入られる恐れがあるため、必ずこれを回避しようとするでしょう。
そして後の世に「龍馬が西郷と勝の間にはいり、江戸は戦火から免れた」と言われるようになるでしょう。
その後も会津、函館と戦乱は続きますが、官軍側の勝利は決定的なものになっていきます。
このとき龍馬は…
1.会津藩や函館の榎本武明に降伏するよう走り回る
2.戦の決着はついたようなものなので、新政府の人材探し
3.いったん土佐、あるいは長崎へ戻る
私は考えでは3番ですね。
この時点では、これで全て上手くいく、と考えてるような気がします。
あとは大久保や木戸に全てを任せればいい、みたいな。
そして妻のお龍をつれて土佐に帰ったかもしれませんし、長崎で海援隊のこれからのことを考えていたかもしれません。
いずれにしても、政治の表舞台からは外れるように思います。
明治政府が発足したものの、次から次へと難題が持ち上がり、四苦八苦、大混乱に陥ります。
それまでの幕府的システムを一新したいものの、長く続いた藩体制というのは完全に根付いてしまっていてどうにもなりません。
また政府内でも混乱と対立が続き、薩摩派閥は長州派閥に対抗するため、鹿児島に帰っていた西郷隆盛を政府に呼び戻します。
このとき、発言権の弱かった土佐派閥(後藤象二郎や板垣退助)は、どう対抗したでしょう?
私はここで、坂本龍馬を政府に引き入れて、土佐派閥の強化を図ったのではないか?と思うのです。
さて、ここで龍馬ですが、新しい政治体制が少しも上手くいっていない、それどころか幕府時代よりも庶民が苦しんでいる状況のなか、それを黙って見ているでしょうか?
本人は役人にはなりたくない、と考えていた節がありますが、そうは言ってられないでしょう。
脱藩浪士時代は、自分に権限がないので、有力な人物(西郷や木戸、後藤など)を動かして倒幕を目指しましたが、このとき人を動かす苦労というのが身にしみているはずです。
そして坂本龍馬、政府入り。
明治4年岩倉使節団が結成され、アメリカ、ヨーロッパ見学に政府の要人が出発しますが、ここに龍馬も加わってることでしょう。
そして憧れの欧米諸国、その進んだ文明を目の当たりにし、カルチャーショックを受けたことと思われます。
2年近くに及ぶ見学から帰った彼らを待ち受けていたのは、西郷が中心となった征韓論です。
朝鮮半島を独立させ、ロシアの南下政策の防波堤にするというもの、そして朝鮮半島独立のために日本の士族を派遣し、士族の不満を解消しようとするものです。
土佐派である後藤、板垣も征韓論賛成派です。
しかし、実際に欧米諸国を見て回った人間で、征韓論に賛成するものはほとんどいません。
あまりの文明レベルの差を見て、朝鮮半島がどうとか、そういうことよりも、まずは国内整備が大事と考えるのは当然といえるでしょう。
当然、龍馬も征韓論には反対するわけで、まずは同郷の後藤、板垣を説得、そして親玉である西郷の説得をします。
後藤、板垣はともかく、西郷を説得することは不可能でしょう。
そして西郷は下野、多くの薩摩派閥の人間も下野します(明治6年の政変)。
史実では、後藤、板垣も下野しますが、ここは龍馬が説得して政府内に留まってるかもしれません。
同じく下野した司法卿の江藤新平もそうですが、征韓論の実現を目指したというより、政府内の力関係、薩摩、長州派閥が強すぎることへの反発もあったと思うのです。
佐賀に戻った江藤は、反政府勢力に押され挙兵します(佐賀の乱)。
実質政府を牛耳る大久保は、政府の力を見せ付けるため、すぐさま乱の制圧に乗り出し、江藤即刻死刑。
龍馬は有能な江藤の助命嘆願をしますが、この乱制圧の全権限を持っている大久保は聞く耳を持たず処刑を断行していることでしょう。
この時期、板垣と後藤が中心となり、自由民権運動が叫ばれます。
この考えは龍馬の考えにも共通する部分があるので、その政党である愛国公党に参加しているかもしれません。
民撰議院設立建白書に署名している可能性が高いです。
明治9年、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱が連続して勃発し、不平士族は鹿児島の西郷の決起に期待を寄せます。
当時、もしも西郷が決起し乱を起こせば、今の弱小な政府はひとたまりもない、とほとんどの人は思っていたようです。
ここで龍馬の出番です。
鹿児島の火薬庫が爆発すれば日本は滅びる、それを防ぐことが今の自分の成し遂げること、そう思ったに違いありません。
鹿児島へ飛び、西郷と面会、同時に犬猿の仲となっていた大久保との仲を取り持とうとするでしょう。
そして大きく歴史は動きます。
龍馬が生きていたら西南戦争はなかった
元々、西郷は乱には消極的だったと思われるし、決起後も積極的に勝利しようとしていないように思われます。
西郷なりの武士の終焉の花火をあげた、という感じでしょう。
しかし、龍馬がいたら、こんな危険な反乱はどうやっても抑えていたと思います。
明治10年、坂本龍馬43歳は、西南戦争を回避することに奔走し、それを成し遂げたことでしょう。
では、士族の不満はどうやって解消したのか?
乱の中心となった鹿児島私学校をどうやって解体したのか?
これはわかりません。
南下してくるロシアへの防備、あるいは清国への防備に使うため、正規の軍隊として取り入れていたのかもしれません。
国内はなんとか安定してきます。
いよいよ龍馬は自分が本来やりたかったこと、家族を海外旅行につれていくとか、世界規模のビジネスをやっていたかもしれませんが、どうでしょう?
この頃、同郷の岩崎弥太郎は、三菱を設立し大成功していますが、龍馬はそこまでの商才はないと思われます。
一方、清国は琉球王国や朝鮮半島問題などで、対日策が強くなってきます。
富国強兵を推し進める政府、西南戦争がなかったとしたら、その分の軍事費を対清国政策に当てることが出来ます。
当時、日本の海軍力は非常に低かったといわれますが、龍馬がいたら最新鋭の軍艦の購入を進めていたかもしれません。
結果として日清戦争は避けられなかったと思われますが、より日本に有利になっていたことでしょう。
明治27年、坂本龍馬60歳のことでした。
還暦を迎えた龍馬は、土佐へ帰ります。
そして妻お龍と静かな日々を過ごしたことでしょう。
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