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来年の大河ドラマは浅井三姉妹の江が主人公の「江~姫たちの戦国」です。
浅井三姉妹というのは、戦国武将、浅井長政と織田信長の妹、市との間に生まれた姉妹です。
彼女たちが生まれ育ったのが、現在滋賀県長浜市にある小谷城です。
今回はその小谷城について。
標高500メートル近い小谷山の尾根筋を削っていくつもの曲輪をつくり、堀切(尾根を人工的に切り込み敵の侵入を防ぐもの)、土塁(土を盛って作った堤防状の城壁)で防御した典型的な中世山城です。
通常、この手の山城は戦時の詰めの城で、居館は山の麓にある場合が多いのですが、この小谷城は非常に規模が大きく、山の山頂から尾根にかけて大規模に削りだし、そこに大きな屋敷をいくつも建設された居城だったようです。
私は過去2回、ここを訪れたことがあるのですが、最初に訪れたときは、本格的に城域が始まる尾根まで車で登りました。
2回目は、城巡りの専門家であるK氏と麓から登山道を登り、城の全域を見学しました。
さて小谷城の主郭部に「伝天守台」される土壇があります。
一部石垣で補強された部分で、大広間と呼ばれる屋敷跡を見下ろすような位置に存在します。
ちょうど近世城郭の本丸御殿と天守閣の位置関係のようです。
そこはかつて天守閣があったと言い伝えられている場所なのです。
それを裏付けるかのように、長浜城の天守は小谷城の天守が移築されたもの、とか、その後、彦根城の西の丸三重櫓として移築された、とかの言い伝えがあります。
私は以前からこれには疑問を感じておりました。
本当に小谷城に天守ってあったの?
実際に小谷城主郭に行ってみると、四方遮るものがなく、非常に見晴らしがいい。
ここにわざわざ不安定な高層建築をする必要性を感じません。
また、城の象徴としの存在も、そういう観念が出来上がるのはもう少し後の時代のことだし、小谷城では山の上すぎて、遠すぎて下からはあまり見えないでしょう。
それに、日本の城に天守が初めて登場したのは、織田信長が築いた安土城の天守(天主)です。
安土城が出来たのは1576年、小谷城が廃城になったのは1575年、時期的に見てもありえない。
安土城以前にも、天守っぽいものが存在する城はいくつかありました。
例えば、同じ浅井家の城では、鎌刃城もその一つでしょう。
小谷城に次ぐ規模を誇る山城で、同じように尾根を削って出来た城です。
その尾根の最初と最後に、石垣で固められた土台の上に複層の櫓があったとされており、天守の原型とも言われてます。
ここも私はK氏と訪れたことがあるのですが、たしかに石垣の組み方などを見ていると、近世城郭の天守台のようだなって思いました。
「伝天守台」というのは怪しいものが多い、と思います。
そのほか、私が行ったことのある中世城館でも説明板などで「伝天守台」とされている土壇をいくつか見かけますが、ほとんど怪しいものばかりですね。
おそらく物見櫓程度のものがあっただけだと思います。
なぜ天守があったことにしたいのか?
私の想像では、近世以降、城といえば天守、みたいになってきたので、「オラが村の城跡も天守があった」といったほうが聞えがいい、とかそういうことじゃないでしょうか。
最後に。
来年の大河を見て、小谷城を訪れたいと思った場合、気をつけなければいけないことがあります。
それは、この山には熊が出没するということ。
夏場はスズメバチが多いこと。
山歩きに慣れてない人は、車で登れるところまで登ったほうがいいということ、この3点です。
今日からスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」第2部がスタートします。
ドラマはいよいよ日露戦争へと突入していくわけですが、ここで乃木将軍はどのように描かれるのでしょうか?
原作通りだと、無能な愚将となるわけですが…。
軍神として祭られる乃木希典でありますが、現在その評価は真っ二つにわかれます。
類まれなる名将と無能な愚将。
この無能な愚将という評価の最もたるものが、司馬遼太郎著書「坂の上の雲」です。
歴史上の人物の好き嫌いの激しい司馬氏は、嫌いな人物についてはボロクソといっていいほどこき下ろします…評価すべき点はきちんと評価していますが。
徳川家康、藤堂高虎、淀殿、徳川慶喜、伊地知幸介、そして乃木希典。
大ベストセラー作家である司馬氏の作品は、まるで歴史を見てきたかのようなリアリティがあり、しばしそれが史実と勘違いされるわけです。
膨大な資料に基づき、自分なりの歴史観を確立させて小説を書くのは正しいわけですが、それはあくまで司馬氏の主観であり、史実とは異なるのです。
実際、司馬氏は評価すべき人物を持ち上げるために、その対比として別の人物を実際以上に悪く書くことがあると言ってます。
小説なのだから、それはそれでいいと思います。
問題はそれを史実だと信じ込んじゃう人。
さて、昨日からネットで、一般の人は乃木希典をどう評価しているのか調べてみたところ、司馬史観の影響が非常に色濃く反映されていて、司馬遼太郎恐るべし、といったところでした。
愚将派はたいてい司馬史観そのもの、名将派はアンチ司馬で児玉源太郎を低く見る傾向あり。
乃木の評価が最も分かれるのが、日露戦争時の旅順要塞攻略戦です。
ここで両派の意見をまとめてみました。
愚将派
・コンクリートで固めた近代要塞に対し、銃剣突撃による正面攻撃という愚かな戦いおこなった
・1回目の攻撃で夥しい被害を出したにもかかわらず、それを何度も繰り返した
・海軍が要塞攻撃に有効な艦載砲を貸すといってるのを無視した
・司令部は戦場から離れた安全圏内にいて、状況を把握するという任務を怠った
・攻略戦の当初から、要塞の弱点(二百三高地)が海軍側から指摘されているのに無視した
名将派
・銃剣突撃の前に充分な砲撃が加えられており、無駄に突撃したわけではない
・当時、世界最強といわれたロシア陸軍が、彼らの最も得意とする要塞築城をしたわけで、あの程度の犠牲と日数で攻略出来たのは奇跡的である
・元々陸軍に旅順要塞を攻撃するという計画はなく海軍からの要請だったが、準備不足なのに早期占領の催促が激しかった
・ヨーロッパの名将と言われる人物でも、旅順要塞より小さい要塞を落とすのに、もっと大きな犠牲を出している
私は素人なので、乃木希典の評価がどうとかいえません。
人間性についていえば、非常に厳格で自分に厳しく、他人には敵軍の捕虜であっても寛大であり、質素倹約だがお洒落な人物らしいです。
映像化された乃木希典では、映画「二百三高地」で、仲代達矢さんが演じた印象が強いです。
ここでは中々落ちない旅順要塞に苦しむ一人の将軍として描かれていて、とくに愚将とも名将ともされていなかったと思いますが、質実剛健な雰囲気が出ていて良かったと思います。
「坂の上の雲」では柄本明さんが演じていますが、仲代さんのイメージが強くてちょっと違うなって思ってしまいます。
今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が終了しました。
それにちなんで、幕末ファンの間でよく話題になる「もしも坂本龍馬が暗殺されなかったら」について自分なりの意見を書いてみたいと思います。
まず、坂本龍馬とはどういう人間で、何をしたかったのか?
これについてはっきりさせておかないと考察が出来ません。
ここで私の考えをはっきりさせておきます。
まずは坂本龍馬という個人について
・自分に都合の悪い人間をむやみに暗殺したりはしない
・欧米の進んだ文化に憧れている
・今までの常識にとらわれない柔軟な頭
・世界一周旅行、とくにアメリカやヨーロッパの国々を見学したい
・世界規模の仕事がしたい
つづいて彼が目指していたもの
・日本を欧米列強の圧力に屈指ない独立国家
・徳川幕府が支配する世の中を廃し、民主主義的な社会を目指す
・基本的に国民は平等で、志があれば誰でも政治に参加出来る可能性がある制度
・日本国民の幸せ
それでは、龍馬が暗殺されず、戦死することもなく、明治30年くらいまで生きていたとしましょう。
慶応3年10月14日、京都二条城において大政奉還が実施され、徳川幕府が終焉します。
龍馬は新しい政府のための人材を確保するため日本中を飛び回りますが、薩摩や長州は武力倒幕を進めていきます。
そして慶応4年1月3日、京都にて薩摩、長州と旧幕府が軍事衝突(鳥羽伏見の戦い)、戊辰戦争の幕開けとなります。
武力倒幕に反対だった龍馬ですが、時代の流れには逆らえないでしょう。
このとき龍馬のしそうな行動を3つ
1.板垣退助率いる土佐軍に合流し、戦争に加わる
2.海援隊を率いて薩長海軍に合流、あるいは単独で幕府海軍を攻撃
3.戦争をやめるように西郷を説得
たぶん2番、海援隊で戦争に参加したかな、と思います。
ただ、歴史の流れを変えるほどの成果はなかったでしょう。
天皇を見方につけた薩長は官軍となり鳥羽伏見の戦いに勝利、江戸総攻撃のため江戸を目指します。
ここで西郷と勝による会談が行われ江戸無血開城がなされますが、おそらくこれに龍馬は一枚噛んだと思われます。
江戸が戦火に包まれると欧米諸国に付け入られる恐れがあるため、必ずこれを回避しようとするでしょう。
そして後の世に「龍馬が西郷と勝の間にはいり、江戸は戦火から免れた」と言われるようになるでしょう。
その後も会津、函館と戦乱は続きますが、官軍側の勝利は決定的なものになっていきます。
このとき龍馬は…
1.会津藩や函館の榎本武明に降伏するよう走り回る
2.戦の決着はついたようなものなので、新政府の人材探し
3.いったん土佐、あるいは長崎へ戻る
私は考えでは3番ですね。
この時点では、これで全て上手くいく、と考えてるような気がします。
あとは大久保や木戸に全てを任せればいい、みたいな。
そして妻のお龍をつれて土佐に帰ったかもしれませんし、長崎で海援隊のこれからのことを考えていたかもしれません。
いずれにしても、政治の表舞台からは外れるように思います。
明治政府が発足したものの、次から次へと難題が持ち上がり、四苦八苦、大混乱に陥ります。
それまでの幕府的システムを一新したいものの、長く続いた藩体制というのは完全に根付いてしまっていてどうにもなりません。
また政府内でも混乱と対立が続き、薩摩派閥は長州派閥に対抗するため、鹿児島に帰っていた西郷隆盛を政府に呼び戻します。
このとき、発言権の弱かった土佐派閥(後藤象二郎や板垣退助)は、どう対抗したでしょう?
私はここで、坂本龍馬を政府に引き入れて、土佐派閥の強化を図ったのではないか?と思うのです。
さて、ここで龍馬ですが、新しい政治体制が少しも上手くいっていない、それどころか幕府時代よりも庶民が苦しんでいる状況のなか、それを黙って見ているでしょうか?
本人は役人にはなりたくない、と考えていた節がありますが、そうは言ってられないでしょう。
脱藩浪士時代は、自分に権限がないので、有力な人物(西郷や木戸、後藤など)を動かして倒幕を目指しましたが、このとき人を動かす苦労というのが身にしみているはずです。
そして坂本龍馬、政府入り。
明治4年岩倉使節団が結成され、アメリカ、ヨーロッパ見学に政府の要人が出発しますが、ここに龍馬も加わってることでしょう。
そして憧れの欧米諸国、その進んだ文明を目の当たりにし、カルチャーショックを受けたことと思われます。
2年近くに及ぶ見学から帰った彼らを待ち受けていたのは、西郷が中心となった征韓論です。
朝鮮半島を独立させ、ロシアの南下政策の防波堤にするというもの、そして朝鮮半島独立のために日本の士族を派遣し、士族の不満を解消しようとするものです。
土佐派である後藤、板垣も征韓論賛成派です。
しかし、実際に欧米諸国を見て回った人間で、征韓論に賛成するものはほとんどいません。
あまりの文明レベルの差を見て、朝鮮半島がどうとか、そういうことよりも、まずは国内整備が大事と考えるのは当然といえるでしょう。
当然、龍馬も征韓論には反対するわけで、まずは同郷の後藤、板垣を説得、そして親玉である西郷の説得をします。
後藤、板垣はともかく、西郷を説得することは不可能でしょう。
そして西郷は下野、多くの薩摩派閥の人間も下野します(明治6年の政変)。
史実では、後藤、板垣も下野しますが、ここは龍馬が説得して政府内に留まってるかもしれません。
同じく下野した司法卿の江藤新平もそうですが、征韓論の実現を目指したというより、政府内の力関係、薩摩、長州派閥が強すぎることへの反発もあったと思うのです。
佐賀に戻った江藤は、反政府勢力に押され挙兵します(佐賀の乱)。
実質政府を牛耳る大久保は、政府の力を見せ付けるため、すぐさま乱の制圧に乗り出し、江藤即刻死刑。
龍馬は有能な江藤の助命嘆願をしますが、この乱制圧の全権限を持っている大久保は聞く耳を持たず処刑を断行していることでしょう。
この時期、板垣と後藤が中心となり、自由民権運動が叫ばれます。
この考えは龍馬の考えにも共通する部分があるので、その政党である愛国公党に参加しているかもしれません。
民撰議院設立建白書に署名している可能性が高いです。
明治9年、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱が連続して勃発し、不平士族は鹿児島の西郷の決起に期待を寄せます。
当時、もしも西郷が決起し乱を起こせば、今の弱小な政府はひとたまりもない、とほとんどの人は思っていたようです。
ここで龍馬の出番です。
鹿児島の火薬庫が爆発すれば日本は滅びる、それを防ぐことが今の自分の成し遂げること、そう思ったに違いありません。
鹿児島へ飛び、西郷と面会、同時に犬猿の仲となっていた大久保との仲を取り持とうとするでしょう。
そして大きく歴史は動きます。
龍馬が生きていたら西南戦争はなかった
元々、西郷は乱には消極的だったと思われるし、決起後も積極的に勝利しようとしていないように思われます。
西郷なりの武士の終焉の花火をあげた、という感じでしょう。
しかし、龍馬がいたら、こんな危険な反乱はどうやっても抑えていたと思います。
明治10年、坂本龍馬43歳は、西南戦争を回避することに奔走し、それを成し遂げたことでしょう。
では、士族の不満はどうやって解消したのか?
乱の中心となった鹿児島私学校をどうやって解体したのか?
これはわかりません。
南下してくるロシアへの防備、あるいは清国への防備に使うため、正規の軍隊として取り入れていたのかもしれません。
国内はなんとか安定してきます。
いよいよ龍馬は自分が本来やりたかったこと、家族を海外旅行につれていくとか、世界規模のビジネスをやっていたかもしれませんが、どうでしょう?
この頃、同郷の岩崎弥太郎は、三菱を設立し大成功していますが、龍馬はそこまでの商才はないと思われます。
一方、清国は琉球王国や朝鮮半島問題などで、対日策が強くなってきます。
富国強兵を推し進める政府、西南戦争がなかったとしたら、その分の軍事費を対清国政策に当てることが出来ます。
当時、日本の海軍力は非常に低かったといわれますが、龍馬がいたら最新鋭の軍艦の購入を進めていたかもしれません。
結果として日清戦争は避けられなかったと思われますが、より日本に有利になっていたことでしょう。
明治27年、坂本龍馬60歳のことでした。
還暦を迎えた龍馬は、土佐へ帰ります。
そして妻お龍と静かな日々を過ごしたことでしょう。
昨年訪れたコースが良かったので、今年もそれをベースに、もう少し時間的に余裕をもって回りました。
南禅寺~哲学の道、清水寺~祇園というコースです。
天気は一日晴れたり曇ったりという感じで、昨年のほうが綺麗だったように思いますが、それでも非常に見ごたえのある紅葉が楽しめました。
さて、世界的な観光地である京都ですが、市内の移動手段はどれがいいのでしょう?
・地下鉄など鉄道利用
一日乗車券も発売されていて行こうとする場所によっては便利なのですが、東京、大阪、名古屋のように地下鉄網が発達していないので、やや不便。
・バス利用
こちらはかなり整備されていて、非常に便利ではあるものの、交通渋滞に巻き込まれやすく、またバス停での行列もかなりのもので、移動時間がけっこうかかることも。
・マイカー利用
ある程度地理がわかる人、あるいはナビを使いこなせる人なら、意外にスムーズに移動が出来ます。
ただし、有名観光地周辺のパーキングはほとんど満車だし、料金もかなり高いです。
通常のルートしか知らない人だと、渋滞地獄に。
・タクシー利用
言うまでも無く最も便利。ただし料金もそれないに高い。
一日貸切だとさらに便利で、有名なお食事処の予約もしてくれますが、お金に余裕のある人向け。
今回私は、地下鉄とバスを利用しましたが、とくに帰り、京都駅に向かうバスの混雑は酷く、待ち時間を含めると四条河原町から1時間近くかかりました。
これなら四条烏丸まで歩いて、地下鉄に乗ったほうが良かったです。
文学とロックについてです。
邦楽界において、日本文学とロックの融合は古くから行われていたようですが、私は日本の古いロックについては詳しくないので、自分の知ってる範囲(90年以降)だけで書きたいと思います。
エレファントカシマシに見られる太宰治や森鴎外からの影響、陰陽座に見られる古典からの影響についてご存知の方も多いと思いますが、最も露骨に小説から直接引用しているバンドといえば人間椅子がその筆頭でしょう。
江戸川乱歩、横溝正史など古典ミステリーと太宰治の影響がモロに出ていて、それをブラック・サバス、キング・クリムゾン直系のヘヴィ・ロックに乗せて演奏するスタイル。
中でも傑作だといえる曲を紹介しましょう。
「芋虫」です。
江戸川乱歩の同名小説からヒントを得た歌詞内容です。
まず小説「芋虫」について。
戦争で両手、両足、聴力を失い、発声すら出来ない夫を持つ妻の話。
奇跡的に命だけは取り留めたものの、あまりに豹変してしまった夫を、人目の付かない離れ座敷に隠すように住まわせる妻。
人は嫌な顔一つ見せず献身的に世話をする妻を、今の世の美談として褒め称えるものの、それを素直に受け入れることが出来ません。
傷が塞がった夫は、ただ性欲だけが生きがいになり、妻もまた、この物言わぬ肉塊のような夫を性の玩具としてセックスに溺れるのです。
五体満足な妻と、自分では何一つ出来ない夫。
人前では貞節な妻が、やがてサディスティックな感情が芽生え、性の奴隷のように夫を扱うようになります。
妻は、自分でも信じられないくらい痴態をさらし、気が狂ったように快楽にはまるのですが、やがて平常にもどったとき、夫の数少ない正常な部分、そのつぶらで純真な視線に耐えられなくなるのです。
そして、ついに夫の両目を潰してしまいます。
そして後悔、涙を流しながら、夫の胸に指で「ユルシテ」と書きます。
取り返しのつかぬ罪業と救われぬ悲愴、ただ人が見たくて、世の常の姿を備えた人間が見たくて、家を飛び出します。
夜、再び家に戻ると、夫の姿がありません。
口で鉛筆をくわえて書いたと思われる文字「ユルス」、やがて、庭の古井戸にトボンと鈍い水音が…。
この悲しすぎる夫婦の物語を、夫の目線から描いたのが、この曲です。
夫は妻の苦しみがわかっているのです。
こんな自分をここまで生かせてくれたことに感謝し、そして夫として肉体的に妻を満足させることが出来たことに喜び、しかし自分の存在のせいで妻を苦しめている。
自分はむさぼるだけの芋虫、決して成虫になることは出来ない、ただ落ちていくだけ…
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